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一罰百戒の倫理的資本主義

「自由」で「不自由」な社会を読み解く 第29回

『しゃりばり』20068月号、58-59

橋本努

 

 

1.相次ぐ業務停止

 金融業界の不祥事がつづいている。最近になって業務停止命令を受けた会社は合計6社。明治安田生命、三井住友銀行、三井住友海上、アイフル、中央青山監査法人、そして損保ジャパンという、いずれも大手の企業ばかりである。また今年の6月には、村上世彰代表の率いる「村上ファンド」のインサイダー取引が発覚し、日本銀行の福井俊彦総裁による同ファンドへの出資問題も明るみに出た。こうした倫理にもとる出来事が多発する背景には、いったいどんな構造的要因があるのだろうか。日本経済はネオリベラリズム(新自由主義)の段階を迎えたといわれるが、ネオリベラリズム社会とは端的に、拝金主義が蔓延する社会なのだろうか。バブル経済以来の好況に沸く現代社会の浮かれたムードのなかで、私たちは自由社会の功罪を問われている。

 

2.拝金主義の蔓延

 実はここ数年間、日本における各種金融規制の撤廃は、至上の政策課題となっていた。日本社会はこれまで、金融規制と財政赤字の累積において、他の先進諸国よりも自由度が低い(政府部門が大きい)と批判されてきたからである。しかし実際に金融の規制を緩和してみると、その間隙を突いて思いもよらぬ事態が生じてきた。例えば、時間外取引による株の大量取得や、物言う株主による企業運営の調教、あるいは、悪質な貸し付け行為の蔓延などである。かつてライブドアの元社長ホリエモンは、「金で買えないモノはない」とうそぶいたが、この発言はおそらく、次のような現実を象徴していたのであろう。金融の規制緩和によって、たとえどんなに非倫理的な金儲けをしたとしても、それは既成勢力を打破する力をもつがゆえに社会的に賞賛されうる、という現実である。カネの力によって、既成の勢力が解体されていく。人々はその解体の力に、新たな時代の解放感を得たにちがいない。

 しかし、ホリエモンに代表される新興勢力の解体力は、結果として新たな創造へと結びついたわけではない。むしろ人々のあいだに拝金主義を蔓延させ、社会のモラルを低下させることになった。ライブドア社の手口など、金融事業に携わる人たちの氷山の一角にすぎないと言われるが、その背後には、無数の顔の見えない拝金主義者たちがうごめいている。これまで発覚した不祥事はすべて、当事者たちにとっては「不運」といえば「不運」であった。摘発された人々や企業は、目立ちすぎたがゆえに罰を受けたのであって、目立たなければ何をやってもよいという風潮は、すでに私たちの現実となっている。

 社会のルールを無視してまで欲望をかりたてる拝金主義。この拝金主義による法の違背を防ぐためには、いかなる処方が適切であろうか。対策にはおよそ二つの道が考えられよう。一つには、金融規制を再び強化して、市場プレーヤーたちに自由の余地を与えないことである。極端に言えば、金融市場をすべて国有化してしまえば、拝金主義の余地はなくなる。もう一つには反対に、金融規制をすべて取り払い、インサイダー取引であれ何であれ、すべて認めてしまうという自由化の方向がある。これは結果として、不公正な市場経済を招くかもしれないが、しかし例えばドイツでは、インサイダー取引は違法ではない。ドイツのように金融取引の自由を徹底的に認めてしまうというのも、一つの方向性であろう。

ではこの二つの方向のうち、いずれが望ましいであろうか。金融規制を強化するという道は、経済構造の不可逆性ゆえに採用しえないであろう。また、金融規制をすべて撤廃するという道も、倫理的な抵抗があって支持しがたいであろう。結局私たちの社会は、この二つの政策のあいだで「中庸」を見極め、違法者に対する厳重な処分を下していくほかないのであるが、ただこの現実的な考え方にも欠陥がある。すなわちこの考え方ですら、「ルールの下で制御された市場経済」を達成することが難しいのである。

私たちは現在、拝金主義者たちが跋扈する社会において、金融監査能力の限界から、ごく一部の人々(大企業や大物プレーヤー)しか罰することができないでいる。目立つ人々を罰することによって、他の人々に「倫理的」なメッセージを与えるという、「一罰百戒」の法運用(ザル法に依拠した懲罰の施行)に頼っている。市場の秩序は、そのような一罰百戒の調教によって、かろうじて保たれているにすぎない。現代社会は、ルールの下で制御された市場秩序を達成しているのではない。むしろ、うまく運用しうるルールを見出せないがゆえに、「ルール」に代えて「倫理」の調教を施しているのである。

 

3.法よりも倫理

 この非情な現実は、自由主義者たちの市場観に大きな変更を迫るであろう。自由主義者たちはこれまで、公正なルールの下での市場経済があたかも達成可能であるかのように語ってきた。しかし現代の市場においては、ザル法が恣意的に適用されているにすぎない。法の運営には大きな監視コストがかかることから、私たちは一部の違背者しか処罰することができないのである。こうした社会を、一罰百戒の倫理的秩序と呼ぶことができよう。

 金融業界の問題について考えてみよう。保険金の不払いや、金融商品の押し売り、あるいは、いきすぎた取り立てなど、金融業にはさまざまな不正がみられるが、これらの不平をどのように取り締まるかについては、現在のところ、金融庁の判断にまかされている。では、どれだけ悪質な不正をすれば業務停止になるのだろうか。あるいは業務改善命令のみで済まされるのだろうか。その判断基準は、明確にルール化されているわけではない。法の運用には倫理な裁量の余地があり、その裁量判断には、世論の動向も反映される。そして世論の動向とは恐ろしいものである。私たちの社会を見渡してみると、一方には、法を破って儲けようとする無数の金融マルティテュードたちがいて、他方には、ネオリベラルな市場社会を倫理的に非難する大衆の怒り声がある。金融監査は、この二つの勢力の拮抗する陣地戦となっている。

私たちの自由社会は、倫理的懲戒によって恣意的に自由が確保されるという、実に危うい状態にある。自由化によって人々は、不正の余地をたくさん与えられることになった。インサイダー取引疑惑で逮捕された村上世彰氏は、自らの非を認めつつ、その誤りを「道路標識を見落とした」ことに例えたが、実に、私たちの社会はバレにくい不正の余地がたくさんある。社会はあたかも、標識をあまり見なくても運転できる道路のようである。不正がばれたら、村上氏のように「私は時代の徒花(あだばな)だ」と言って散っていく。そんな儚さの背後には、「みんな不正を働いているじゃないか。私は目立ちすぎただけだ」という諦念の声が聞こえてくる。